2004年4月27日、オープン
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そう思ってから約1年が過ぎた。

あれからの展開は驚くほど速かった。転機を迎えたと確信したオオニシは、すぐさま次の準備に取りかかった。次のチャレンジのテーマは、あの時ブルーノートでタイムカプセルから取り出した様々なものが材料だった。

明るい陽射し、リラックスした生活、美味しい食事、楽しいこと、遊び、懐かしいこと、Good Times、Good Music、そしてリアルな体験。これら全てを一つのビジネスにまとめ上げるのは少し時間がかかりそうだ。そう思ったオオニシは、一つずつステップを踏むことにした。

まずは、最終的に何をしたいかを考えた。もし自分にふんだんに使える資金と人脈があれば何をするか?答えは明白だった(ただし途方もないアイデアではあるが)。それは、この田園都市線沿線にブルーノートのような大人のライブハウスを作り、美味しい食事、素晴らしいライブミュージックを融合することだ。

もちろん残念ながら、オオニシにはそんなお金も人脈もない。そこで、まずはその原型となりそうな小さな箱から始めることにした。ライブミュージックはまだ無理だ。ならば、楽しく美味しい店から始めよう。そう考えたオオニシの脳裏をよぎったのは、あのスキンヘッドのいかつい男、エンツォ・マルターノの顔だった。

あの時食べた本物のピッツァの味、あれを再現してみよう。そして、それを多くの人に味わってもらい、楽しい時間を過ごしてもらうのだ。そう考えたオオニシは失われた記憶を辿り、あのピッツァの作り方を思い出そうとしていた。生地の仕込み、発酵、焼き方などの手順は体が覚えている。しかし、使っていた小麦粉、イーストなどが思い出せない。特に小麦粉だ。そこで当たり前のように使っていた粉が、どんな銘柄だったのかがわからない。確か青い袋の真中に、ピエロのような男の絵が描かれていた。

a0051884_20355466.jpg小麦粉の捜索は困難を極めた。ネットでfarina(イタリア語で小麦粉)というキーワードで検索しても大量にヒットするだけで、見覚えのあるパッケージは見つからなかった。ほぼ諦めかけた時、ダメで元々と、日本語で検索をかけてみた。すると見つかったのだ。見覚えのある青い袋、ピエロのような男がピッツァを持っている絵。確かこんな絵だった。それを何と、長野にある食材会社がそれを輸入していたのだ。オオニシはすぐに長野へ向かった。

長野にあるその会社は諏訪角商店といって、チーズやピッツァ関連の食材、機材などを専門に輸入販売している会社だった。小麦粉の名前はサンフェリーチェのアズーロピッツァ。4世代にわたりナポリで製粉業を営んできたサンフェリーチェ社のピッツァ専用粉だった。改めてその粉で焼いたピッツァを長野で食べたオオニシは確信した。これだ。これに間違いない。

この粉で焼いたピッツァを多くの人に味わってもらおう。そして、少しずつ店を拡大し、最後には良質なライブミュージックと融合させる。そしていつか必ず、ナイル・ロジャース&シックを始め、多くの一流ミュージシャンを呼ぶのだ。こうしてオオニシの途方もないプロジェクトが始まった。まずその一軒めの店の名前はピッツェリア・マルターノ。あのいかついスキンヘッドの男が壁一杯に描かれた店だ。
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# by martano | 2005-11-26 20:33 | マルターノストーリー
2003年4月18日、ブルーノート東京
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その日、オオニシは幼稚園の年長になる次男を幼稚園に見送ると、藤が丘にあるスターバックスコーヒーへ出かけた。この、オオニシにとっても思い出深いシアトルで生まれたコーヒーチェーンは、またたく間に日本中の都市部に拡がり、コーヒーを飲む一つのスタイルを確立していた。

ここには人を引きつける何かがある。オオニシは来る度にいつもそう思うのだ。確かにその独特の雰囲気や空間作り、接客スタイルが人々を魅了しているだろうことはわかる。ただ、具体的に何が、と一つ一つ指摘しようとすると、なかなかこれが難しい。それが面白いのだ。それこそ賛否両論あるコーヒーの味も、「アメリカナイズされたイタリアンバール」という視点で見ればこれも興味深かった。

さて、話を戻そう。

あれから7年が経った。長女の幼稚園の送り迎えから始まったオオニシの新生活は、長男の送り迎え、そして次男の送り迎えと代替わりして、来年には親子共々卒園だ。その間に、無収入だった自身の会社も、インターネット関連の仕事で次第に利益を生むようになり、この頃にはかなりゆったりとした時間の使い方ができるようになっていた。この日も、後でゆっくりと昼食をとってからメールで用事を済ませ、夕方から青山のブルーノート東京へ出かけることにしていた。

それは昨晩遅くJ-Waveのラジオ番組「ソウルトレイン」を聞いていた時のこと、あのナイル・ロジャースがバンドを引き連れて来日、ブルーノートで公演していることを知り、思わず予約を入れたのだ。

オオニシはゆっくりとコーヒーを飲みながら、その晩のことを考えた。彼の演奏を生で見るのは初めてだ。どんな公演になるのだろう?

ネットで場所を調べてから最寄りの表参道駅に着いたオオニシは、はて、と考えた。以前もブルーノート東京には行ったことがあるのだが、こんなところだっただろうか?実は後で調べてわかったことだが、ブルーノート東京は1999年に現在の場所に移転していて、オオニシが行ったのは以前の店舗だったのだ。

初めて訪れた南青山のブルーノート東京は、その雰囲気からして、オオニシの感性にストレートに訴えかけるものだった。シンプルで重いガラスドアを開けると、いかにもヒールの響きが良さそうな、よく磨きあげられた琥珀色の木の床が出迎えてくれる。

ほの暗い明かりの中、過去にここでプレイしたアーティストの写真を眺めながら階段を降りると、そこには小さなホールがあり、ほとんどが30代以上と思しき男女が、程よいお洒落をして、リラックスした様子で入場を待っていた。そこに漂うどことなく優雅な空気は、まさに大人の遊び場と呼ぶのに相応しい雰囲気を醸し出していた。

テーブルチャージと引き換えに渡される整理券の番号は若い順に呼ばれ、入場するとさらに地下にあるライブ会場へと降りて行く。そこは300人ほどが入れる横長のホールだった。ステージの長さに比べて前と後ろの間隔が短く、一番後ろの席でもステージまで30メートルほどだ。

比較的若い整理番号を手にしたオオニシはステージ正面やや右手の前から2番目の席に案内され、すぐ目の前にあるスタンドマイクを見てその近さに驚いた。超一流のミュージシャンをこんな間近で見られるとは、なんと素晴らしい。

しかも、ライブが始まるまでの時間は、そのまま客席で食事や飲み物を楽しむことができる。まさに大人の贅沢と言うべきか。こういう遊びが似合うようになるなら年をとるのも悪くない。オオニシはそんなことを考えながら、注文したゴーヤのトマトスパゲティを口に運んだ。ちょっと苦すぎるか。

出された物は残さない主義だ。最後の一口を無理矢理口に押し込むと、それを待っていたかのように会場が暗くなった。一斉に歓声が上がり、ステージのスポットの中にナイル・ロジャース&シックが現れた。観客が総立ちの中、「1、2、Ah〜〜 Freak out !」といきなり始まると、会場はうねるようなベースと爆発的なドラム、切れ味抜群のカッティングギターに包まれ、それはまさにシックサウンドそのものだった。

演奏される曲は、どれも聴いたことのあるヒット曲ばかりで、オオニシを、いや会場全体を四半世紀ほど昔に引き戻した。あの頃ほど、魅惑的でファンキーなベースラインが溢れていた時代があるだろうか。そんなことを考えていると、途中のMCで、ナイルがさらりと、「今までで最高のベーシスト、バーナード・エドワーズに捧げる」と言ったのだ。

バーナード・エドワーズは、シックのオリジナルメンバーのベーシストだ。元々、シックはナイルとバーナードのユニットと言ってもいい。残念ながらバーナードは既に他界していて、その意味でのトリビュートだと思った。だが、実はもっと深い意味があったのだ。

後で知ったことだが、バーナード・エドワーズはちょうど7年前の4月18日、ここ東京のホテルで急死していたのだ。それは「スーパー・プロデューサー・シリーズ」のライブイベント中のことで、この日はそれからちょうど7年経ったバーナードの命日だったのだ。

そんな意味で、この日のライブはナイルにとっても特別なものだったに違いない。アンコールの最後の曲をナイルはこう紹介した。「シックの今までで最高の曲だ。」そう言って始めた曲は、あの「グッド・タイムス」だった。バーナードが生み出した最高のベースラインに乗せて、ナイルのカッティングギターが冴えわたる。ナイルにとって、この曲はバーナードが確かに生きたという証なのかも知れない。

オオニシにとってもこの日のこの曲の演奏は特別だった。それまでこの曲を好きになった経緯などはすっかり忘れていたのだが、それが1979年夏のアメリカでの体験とリンクしていたことを思い出し、同時にその時の様々な感情を呼び寄せたのだ。

それはまるで、埋められたタイムカプセルを開けたかのようだった。その頃の自分を思い出し、それから今までの自分を省みた。24年の間に、随分遠くまで来た気がする。思えば、為替ディーラーからネット関連会社と、常にバーチャルな仕事をして来た。もう一度、自分の仕事を見つめ直す時かもしれない。
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# by martano | 2005-11-26 20:31 | マルターノストーリー
1996年4月、転身
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だが、オオニシは再び疲れていた。

90年に出会ったナオミとは翌年に結婚、一女一男に恵まれた私生活は順調だった。仕事もそこそこの成果を上げていたが、次第に自分の情熱が失せつつあるのも感じていた。

為替ディーラーの一週間は月曜早朝のニュージーランド市場から始まり、土曜早朝のニューヨークの引けまで昼夜の区別なく続く。そこで勝ち抜くには、仮に夜中の3時に損切りをしたとしても、さらにそこから明け方までにもう一度勝負仕掛ける闘志が必要だ。

ところがこの頃のオオニシは、夜中の3時に負けたらもう寝るのが得策と考えるようになった。普通に考えれば至極まともな判断だが、オオニシはそれを情熱の衰えと捉えた。良く言えば10年の経験から得た知恵とも言えるが、外的要因も無視できなかった。

85年から始まったドルの下落相場はちょうど一年前に79円台をつけ、その極端な変動ゆえ、中央銀行の介入が激しく行われるようになった。昼夜を問わず各国の中央銀行が介入を続け、この頃には再び100円台に戻していた。オオニシは何度か痛い目に遭ううち、次第にやる気が失せるのを感じた。相場自体も変動幅を縮め、面白味がなくなりつつあったのだ。

オオニシは自問した。今後10年から20年、同じ仕事を続けるだろうか?折しも、バブルが弾けて景気が後退する真只中、過去10年間に展開されたスリリングが相場は今後望めそうもなかった。相場師は波乗りと同じだ。荒波がなければ輝けない。そう考えるとほぼ決意は固まった。潮時だ。一番いい時期を為替ディーラーとして過ごせたのは幸運だった。だが、もう次のチャレンジを始める時だ。

それはそれまでの比較的安定し収入を捨てることであり、家族4人にとっては難しい決断だった。だが、妻はその決断を無条件で支持し、オオニシもそれが正しい選択だと信じて疑わなかった。こうしてオオニシは年収15万ドル+出来高ボーナスという仕事を捨て、自分で会社を作り、収入ゼロの会社社長に収まった。問題は、その会社が何をするか、決まっていなかったことだ。

当面のオオニシの仕事は、どうやら入園したばかりの娘を幼稚園への送り迎えすることになりそうだった。もはや通勤はしないので東京にいる必要もなかった。そこで、一家は娘の幼稚園に近い横浜市青葉区へ引っ越し、オオニシも設立したばかりの会社を自宅兼事務所という形で移転した。そこはよく整備された閑静な住宅街で、生活を楽しむには最適の場所だった。

こうして娘の送り迎えから新生活をスタートすることにしたオオニシは、忘れかけていた何かを思い出していた。開店休業状態の自身の会社は何ら収入を生むことはなかったが、その分時間の使い方は全く自由。多くの時間を家族と過ごした。思えば遠い昔、カリフォルニアにホームステイした時のホストファミリーのお父さんスティーブも、いつ仕事をしているのかわからないぐらい家族と時間を過ごし、生活を楽しんでいた。

オオニシも同じようにしてこの街での生活を楽しむようになり、若い頃に体験したアメリカでの生活と、人々のリラックスした暮らしぶりへの憧れが蘇ってきた。引っ越した先の田園都市線の街は、まさにそんな暮らしがよく似合う街だったのだ。
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# by martano | 2005-11-26 20:27 | マルターノストーリー
1990年、東京
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8月2日。オオニシはその日、朝からドルを売るタイミングを計っていた。

シアトルからの帰国後、オオニシは一年で大学を卒業し、アメリカの某商業銀行の東京支店に入社した。入社後すぐに資金部の外国為替ディーリングに配属され、そのまま5年間、対ドル円相場のトレーディングを任されていた。

配属された次の年ぐらいから急激な円高が加速し、テレビのニュースなどでも頻繁に円相場のニュースが流れ、外国為替ディーラーという職業も次第に世の中に知られるようになっていたが、オオニシは最初何も知らずに配属された。性格的に向き不向きが極端な仕事だったが、たまたま向いていたのだろう。本人もすぐに適性を示し、周りもそれを評価した。動じない神経、素早い判断と行動力、地獄耳、そして数秒前の自分の判断に固執しない節操のなさは、まさにこの仕事にうってつけだった。

東京外国為替市場というものは、電話回線で繋がれた銀行同士のネットワークに過ぎない。それは、いつでもお互いに対し売り値、買い値を同時に提示し、2〜3秒の間に取引を成立させなければならない、という紳士協定の上に成り立つ目に見えないマーケットだ。そこで行われる巨大なマネーゲームは、例えて言うなら、いつでも相手を電話で呼び出して自分のカードを引かせることができるババ抜きに似ている。

そこは常に数十億から数百億円の実弾が秒単位で飛び交い、激しい変動を繰り返す世界一スピーディーで過酷なマーケットだ。一瞬の判断ミスや判断の遅れは命取りだが、うまく行けば巨額なボーナスを手にすることができた。実力次第で高給、またはクビという意味ではスポーツ選手のような仕事だ。

その日の相場は朝からドル軟調だった。85年から続いているドルの下げ相場はこの頃には140円近辺まで来て、更に下をうかがう展開となっていた。オオニシは思いきって売り持ちを膨らませようと考えていた。ディーラーの目の前には、必ずいくつものモニターが並び、様々な種類のリアルタイム情報が流れる仕組みになっている。流れる情報次第では相場が大きく変動するからだ。

オオニシが2〜3行の銀行を呼び出してドルを売りつけたちょうどその時だった。目の前のモニターにこんな文字が現れて点滅した。『イラク軍が国境を越えてクウェートに侵攻』

よく為替ディーラーが自分達を揶揄するジョークに、ディーラー度チェックというものがある。曰く、「動く数字には何にでも反応する」というような他愛もない職業病チェックなのだが、その中に「どんなニュースを見ても、ドル売り材料かドル買い材料か考えてしまう」というのがある。どんな下らないニュースも売り買いに結びつけて考えるくせに、本当に重要なニュースが出るとすぐには反応できないことがある。

この時がまさにそんな状態だった。相場は騒然としながらも数秒間、神経質な動きを続け、大きな動きは見せなかった。が、ふいに無気味な静けさが訪れる。それはほんの一瞬の静けさだった。次の瞬間、ブローカーと呼ばれる仲介業者の叫びがスピーカーに戻った時には、一切の売りが相場から消えていた。

売りがないため、そのまま値がつかず、買気配だけが上がって行く。10銭、20銭、50銭...。もはや、何が起きたのか、誰の目にも明らかだった。いや、結局何が起きたのかなど、大して重要ではなかったのかもしれない。重要なのは、それは明らかなドル買いのニュースだった、ということだ。

結局それからドルは5円以上も値を上げ、オオニシはかなりの痛手を負った。その後、再び相場は下げ相場に転じたが、それにも上手く乗れず、オオニシは次第に調子を落として行った。勝負事は波に乗れないと苦しい。年末までには心身ともに疲弊し、限界に近い状態になっていた。

それはむしろその年だけの現象というよりも、いわゆる金属疲労、いや、勤続疲労と言えるようなものだった。お金を生むためにのみお金を動かし、結局何も創造することなくお金を手にする、ということを続けているうちに、結局何のために毎日神経をすり減らして戦い続けるのかわからなくなっていた。そこには決定的に何かが欠けていて、そのことがオオニシを苦しめていた。

その欠けていたもの、それは戦い続ける意義というようなものだった。お金や自己満足だけではない、何か。いや、それは誰かだったのかも知れない。幸運にもオオニシは、そのことを気付かせてくれる女性との出会いに恵まれる。その女性、ナオミはオオニシの人生を根本的に変えた。オオニシは自分本位に戦うだけの人生を大きく転換させると共に、自分自身の戦いに再び意義を見い出すことになる。
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# by martano | 2005-11-26 20:25 | マルターノストーリー
マルゲリータ
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「さて、まずは喰ってもらおう。」

そう言うと、エンツォはすぐ後ろにいたTシャツ姿の男に何やら声をかけた。Tシャツのせいでよくわからなかったが、よく見るとその男は目尻と眉間には深い皺が刻まれ、おじいちゃんと言っていいほどの年だった。男は「Si」と低く呟くと、側にあった木の箱から白い餅のようなものを取り出す。流れるような動作でそれを台の上に置き、粉をかけるといきなり指でそれを突き始めた。と思ううちに何やらそれをパタパタと叩くと、台の上にはもうピザ生地が乗っていた。

a0051884_20242227.jpg男は手早くトマトソースを塗り、丸いチーズを千切って乗せ、緑の葉っぱを乗せた。オイルのようなものを回しかけ、粉チーズをパラパラっとかけると、木製のヘラのようなものでそれをすくい上げ、窯の中へ放り込んだ。すると今度は鉄製の長い棒を持ち上げ、それを窯の中に突っ込むと何やら中でそれを動かし始め、引っ張り出したその先には熱々のピッツァが乗っていた。男はそれをそのまま皿に放り出すようにして乗せ、こう言いながらオオニシの目の前に置いた。「エ ピッツァ マルゲリータ」

「さあ、喰ってくれ。」エンツォはナイフとフォークをオオニシに渡しながらそう言った。オオニシはナイフとフォークを受け取ると、カットも何もされていない丸のピッツァを前にして、これは真剣勝負だと悟った。一刻の猶予もない。オオニシはピッツァの中央にナイフをあて、そこから盛り上がった縁に向けて一気にカットした。そうして8分の1ほどを切り取ると、それをクルクルと丸め、さらにそれを半分に切り、口の中へ放り込んだ。

焦げた縁の香ばしさが鼻に抜け、同時に熱々のトマトとオイル、そして溶けたチーズが一体となって口全体にジュワっと広がった。オオニシは黙って二口めを頬張った。そしてそれを呑み込む前に、三口めをフォークに突き刺した。オオニシは黙々と食べ続け、エンツォは黙ってそれを見つめた。

最後の一口を呑み込むと、オオニシは黙ってフォークを皿の上に置いた。目を上げるとエンツォと、先程のピッツァ職人がオオニシを見つめていた。エンツォはニヤリと笑うと、「5分だ。」と言った。

「5分でピッツァは死ぬ。その間に食べなきゃ、本物のピッツァを喰ったことにはならない。」エンツォは、横にいるピッツァ職人を仰ぎ見て言った。「俺達はお前が気に入ったよ。」そして、エンツォは話し始めた。

「ここは元々俺の親父の店だ。イタリアから移民としてやって来た親父は、ここにいるマリオと二人でこの店を始めた。親父はもう20年も前に亡くなっちまったが、マリオはまだ店を続けている。」

「俺はと言えば、親父のようにはなりたくなかったんだ。この店はイタリア移民相手にはまあまあ繁盛しているが、俺はもっとでっかい成功が欲しかった。そこで親父の店は継がずに自分でビジネスを始めた。それがゴッドファーザーズピッツァだ。望み通り大きな成功を手に入れたよ。商業的にはな。だが、俺の店にはお前のようなピッツァの喰い方をする奴はほとんど来ない。みんなコーラ片手に仲間と喋りながら喰う奴らばかりだ。」

「それでも最初はそれで良かった。俺なりに工夫して、アメリカ人の口に合う旨いピッツァを出しているつもりだし、それで俺の店にたくさんの人が来てくれるのは素直に嬉しい。だが最近はな...。どうも俺も年をとったせいか、親父の店に来ることが多くなった。俺の知る限り、本物はここかナポリでしか喰えない。」

「お前を何度か俺の店で見かけるうちに、どうしても本物のピッツァを喰わせたくなったんだ。つき合って貰って悪いな。だが、ナポリに連れて行くのは遠すぎるからな。」

エンツォはそう言って、またニヤリと笑うと、オオニシを正面から見つめた。

「若いの、お前はいつまでシアトルにいるんだ?」

「あと一年ぐらいです。」

「そうか。その間いつでもこの店に来て親父のピッツァを喰ってくれ。俺のおごりだ。」

それから休みの日になると、オオニシはPizzeria Martanoへ通うようになった。代金を払おうとしてもマリオは本当に首を振るだけで決して受け取ろうとしなかったので、オオニシは店を手伝うことにした。エンツォはたまに店に顔を出すと、厨房の中にいるオオニシに手を振って笑いかけ、窯の前のテーブルにどっかと座ってタバコを吹かしエスプレッソを飲んだ。

こうしてオオニシは、週5日の授業、週6日の皿洗い、週1日のピッツァ職人見習いという生活を帰国まで続け、1985年春、シアトルを後にする。その時はまだ、留学中に学校で得たことだけが自分の未来に繋がる道だと信じていた。

まだ、自分の人生がどう転がるかなど想像もつかない21才の春のことである。
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# by martano | 2005-11-26 20:22 | マルターノストーリー
本物のピッツァ
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握り返した男の手は分厚く大きかった。

「若いの。本物のピッツァを喰わせてやろう。」

そう言うと男はオオニシに手招きし、店のスタッフに何やら声をかけてから出口の方へ歩いて行った。オオニシはすでに注文したピッツァが気になりながらも、とりあえず黙ってエンツォ・マルターノと名乗った男について行くことにした。

男はそのままスタスタと店のドアを通り抜け、店の外に歩き出してしまった。そのまま裏通りに入り、くねくねと狭い道を抜けて行った。5分ほど歩いただろうか、男は薄暗い通りの角で突然止まり、振り返るとニヤリと笑ってこう言った。「ここだ。」

男の肩ごしに見上げた建物には古ぼけた看板がかけてあって、そこには「Pizzeria Martano」と書いてあった。

「さあ、入ってくれ。」そう言うとエンツォは重そうな木の扉を引き、建物の中に入って行った。オオニシは慌てて続き、ドアが閉まる前に何とか片腕をこじ入れ、中へ滑り込んだ。

中に入ってまず驚いたのは、そこが通りの静けさとは対照的な明るさと活気に満ちていたことだ。細長く奥行きのある店内の左側には長いカウンターがあり、そこに7〜8人の男達が立っていた。皆、コーヒーやワインを前にしてカウンターに肘をついて立っている。右側の壁には白黒の古びた写真が飾られ、その壁に沿うようにして4人ぐらいが座れるテーブルが奥まで続いていた。

a0051884_20211832.jpgそして何よりもオオニシの目を惹きつけたのはその細長い店内の一番奥、そこにどっしりと据え付けられていた丸い大きな窯だった。それは直径3メートルほどもあって緑色のタイルで覆われ、赤々と燃える窯口をこちらに向け、圧倒的な存在感を放って存在していた。

エンツォは店内の客から次々にかけられる声に応えながらも、少しも速度を緩めず大股で店内を突っ切り、一番奥のテーブルにこちらを向いて腰掛けた。オオニシも続いてその前の椅子を引き、エンツォの肩ごしに窯を見据えて腰掛けた。

「フォルノだ。」

エンツォは言った。

「アメリカの連中はオーブンなんて抜かしやがるが、あいつはフォルノ(窯)だ。」

オオニシは初めて見るその赤々と燃える窯に見入った。
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# by martano | 2005-11-26 20:19 | マルターノストーリー
出会い
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ある日、オオニシはいつものように一人でゴッドファーザーズピッツァへ出かけた。隅っこのテーブル席に腰をかけると、いつものようにシングルと呼ばれる一人用のピッツァを注文し、窓の外を見ながらボーっと注文の品が来るのを待っていた。ふと、視線を店内に戻した時だ。何かが目の端をよぎり、上の方から降って来た言葉に驚いて目を上げた。

そこには見たこともないような強面の大男が立っていた。今までで最もオオニシがビビッたのはこの瞬間だったかもしれない。そいつはまるで昔のテレビシリーズ「刑事コジャック」のテリー・サバラスのようなスキンヘッドで、しかもその風貌にはおよそ似つかわしくない満面の笑みを浮かべて立っていた。

その笑顔に救われたオオニシは、少しだけ平静を取り戻した。どうやら一巻の終わりではなさそうだ。そう思うと大男の次の言葉がようやく脳に響いた。そいつは確かにこう言ったのだ。「うちのピッツァは好きかい?」

「うちのピッツァ?」どういう意味なんだろうと思いつつも、ぎこちなく頷いてみせると、男は満足そうにう笑ってこう言った。

「若いの。お前さんこの頃よく見かけるな。気に入ってくれて嬉しいよ。」

そう言われて初めて、オオニシはこの男が店の関係者であることに気がついた。

「いつも一人だな。」

「ええ、まあ。」

「ピッツァは好きかい?」と男はもう一度聞いた。今度は「うちの」とは言わなかった。

「ええ、まあ」

「俺は一人でピッツァを喰う奴が好きなんだ。」

オオニシは言われている意味がよくわからず、ただ曖昧にうなずいた。

「何か真剣に喰われている気がするだろう。わかるか?」

そう言われてなんとなく男の言う意味がわかるような気がした。

「旨いものを食べる時は集中したいから。」

それを聞くと、男は満面の笑みを浮かべて右手を差し出した。

「俺はエンツォ・マルターノ。この店のオーナーだ。お前の名は?」
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# by martano | 2005-11-26 20:16 | マルターノストーリー
1984年、シアトル
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a0051884_20112993.jpg夏は毎日快晴、それ以外は全て雨、シアトルはそんな街だ。
イチローもいない、スターバックスもまだ誰も知らない1984年。オオニシはこの街の片隅のある厨房で毎日皿を洗っていた。

5年前のあの夏以来、動き出した何かはそのまま動きを止めることなくオオニシを変えていった。磨きをかけた語学は自信にもなったし、自由と責任という表裏一体の駒を手にしたシンプルな生き方は何にも代え難い力を与えてくれた。

高校卒業後は都内の私立大学に進んだ。この大学には英語学科があり、語学を道具として学ぶ場があったからだ。当然、留学も視野に入れていたが、チャンスは意外な形で巡って来た。

奨学金での留学に欠員が出たので来月からお前が行け、と突然言われたのだ。それが酔っぱらって帰った晩の電話でのことで、そのままの勢いで「OK」と答えたわけだが、まあ、酔っぱらっていなくても答えは同じだっただろう。

というわけで、オオニシはここシアトルにいた。学費の85%を奨学金として貰う代わりに大学が指定する食堂で働くことが条件だった。週5日の授業に週6日の皿洗い。ほとんど勉強と仕事しかすることのない毎日で、楽しさとは程遠かった。

それでもあまり気にする風でもなく淡々とこなしていたのは、元来あまり動じない性格と忙し過ぎた毎日のお陰かもしれない。数少ない楽しみは当時熱中していたテニスに興じることと、近くの美しい山々まで遠出すること、そして自分の働いている厨房以外でとる食事だった。

シアトルのあるワシントン州はEver Green Stateと言われ、憂鬱な雨の代償として美しい山々と緑の州である。その中でテニスをしたり遠出をすることはよい気分転換になった。日本ではあり得ないそんな環境も向こうではごく当たり前のことで、リラックスした人々の生活ぶりに目からウロコが落ちる思いだった。そんな豊かな生活への憧れはその後のオオニシの価値観に影響を与えることになる。

もう一つの楽しみ、食べることからもオオニシはここシアトルで重要な出会いを果たした。食事と言えば働いていた食堂の賄い料理ばかりで、週一日の休みにはとにかく何か違うものが食べたかった。ダウンタウンにある日本食は高くて食べられず、近くのピザ屋へよく出かけた。

その店はゴッドファーザーズピッツァという店で、チェーン店ながら美味しいピザを出していた。当時は日本にも宅配ピザなどはなく、オオニシにとってその味は新鮮な驚きだった。今から思えば典型的なアメリカンピッツァだったが、その後日本に入って来た宅配ピザよりはるかに美味しく感じたものだ。
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# by martano | 2005-11-26 20:07 | マルターノストーリー
全ての始まりは1979年
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全ての始まりは1979年。

ナックの「マイ・シャローナ」が大ヒットし、ドナ・サマーが正に文字通りの「ホット・スタッフ」状態、そしてシックが「グッド・タイムス」で音楽史上最もファンキーなベースラインを生み出した年だ。

この「グッド・タイムス」という曲はそのあまりの格好よさゆえ、それに合わせて喋るように歌うという、今で言うラップの初めてのレコード化のネタとなった。また、翌80年に発表されたクイーンの「アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト」のベースラインはどう聞いてもシックのパクりだ。

この年、当時15才だったオオニシはふとしたきっかけでアメリカでひと夏を過ごすことになる。彼は都内の高校に通うごく普通の高校生だったが、父親が貿易関係の仕事をしていたため、目だけは少なからず海外に向いていた。そこへたまたまアメリカでのホームステイの話が持ち上がり、迷わずロスに飛び立ったのだ。

ロスから更に車で3時間、レイク・エルシノアという湖の畔にある小さな町が、その年オオニシが眩しい夏を過ごした場所だ。迎えてくれたホストファミリーには、17才と19才の姉妹と12才の弟がいて、遠い島国から来た少年をとことん楽しませてやろうと手ぐすねひいて待っていた。

最初の三日間、オオニシは三人の期待を見事に裏切った。まるで達磨のように黙り込み、何を考えているのか全くわからない。ホームステイ前のオリエンテーションで内気な日本人について聞いていなかったら、何がいけないのか真剣に悩み出すところだったろう。

しかし三日めのパーティの晩、状況は突然変わった。まるで耳と口の間に詰まっていた何かが突然外れたかのようにオオニシは喋り出し、置き物の達磨は家族の仲間入りを果たしたのだった。何が起こったのか本人にもわからない。ただ、その晩から、今まで作動しなかった回路にスイッチが入ったようだ。

それから一ヶ月以上もの間、アメリカの自由な空気を吸い、明るい陽射しに照らされ、ラジオから流れる79年ヒットのシャワーを浴びるうち、オオニシは自分の中に眠っていた何かがついに覚醒し、大きく動き出すのを感じたのだった。

ベリー・ベスト・オブ・シック
シック / イーストウエスト・ジャパン
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# by martano | 2005-11-26 20:00 | マルターノストーリー


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